【講演録】磯貝靖洋 講演「声でつかむ命の実感」①

「Vocal Arts Theater No.3 ―声を磨く、言葉を研く―」(2014年5月5日開催)における、磯貝靖洋による基調講演「声でつかむ命の実感」を数回に分けて全文掲載します。


磯貝靖洋でございます。よろしくお願いします。
基調講演で「命でつかむ言葉の実感」という題でお話しさせていただきたいと思います。

只今お聞きいただきました歌、これがユニゾンという歌い方という紹介がありましたが、普通斉唱というのは学校で演奏していた頃はあまりレベルの高くない方たちが、声を合わせてやるんだ、ということでおやりになったんじゃないかと思います。私はそれを少しずつ乗り越えまして新しいスタイルの歌、声の出し方というのを模索しております。今、ここで歌ってらした方、ご紹介にもありましたけど、皆さんみんなプロの演奏家です。この人達はそれぞれのテーマがあって、その作品の時にはこういうところで歌っておられる。ほとんどがソリストです。もしくはオペラの場合は重唱になる。場合によっては仕事によっては合唱もなさる。というようなことがございます。その時に、比較的自分の主たる、なんといいますか、テリトリーという持ち場がある、それをしっかり守っていくというのをいたします。

例えば、私もかつてはオペラの指導をしてました。蝶々さんというのがあります。その時には蝶々さんの役をする。今日あそこでお歌いになった方も蝶々さん歌ってる方が何人もいらっしゃいます。で、彼ら彼女達がこの上でご主人のピンカートンさんと重唱をすると、その時は当然そちらを向いて、こうしてラブソングを歌うわけですけども、それの時には、二人で妙に声を合わせようという努力をそんなにしません。それよりも何かって言うと、このある世界を自分たちの持っている力量で何とかともかく推し進めて行こうとします。その為に重要なのは声の力であると。これはもう当たり前のこと。そのための発声法というのを必死になって勉強するわけです。イタリアの場合はイタリア語の発声方法がございます。

ところが、今日致しましたのは、これは、日本語が大変に良く乗る発声法です。「富士は日本一の山(歌う)」がありました。あれは、そんなに高い、音程ですね、高くないですから、そんなに歌いやすくないんです。何故かって言うと、比較的日本国民がゆったりしていて歌うっていうこと。昔はおじさんソングって言ってました。おじさんソングと言いまして、普通、おじさんがゆったりした声で歌う。ですから高い声で「富士は日本(高音で歌う)」ではなくて、「富士は日本(低音で歌う)」というようなところで歌えるように作られたわけです。それですと、なんとなく聞いてながら「い~ち~の(歌いながら手拍子)」とやりたくなるんですね。そうではない。あれは素晴らしい音楽ですし、富士山ってやっぱりすごい歌ですから、自分達が情緒に浸るよりも、あの音楽であの状態って言うのを素晴らしく研ぎ澄ますことが出来ないだろうかと、ということを考えました。そのためには歌い方が自分達がおじさんソングのような声を出していたらばやっぱりまずい。

で、富士山見ると誰でも「あ、いいなぁ」と思うんです。そういう感情は皆同じなんですけども、いざ表出しようとすると皆バラバラです。富士山はひとつなんです。でもそれを感じるのはみんなバラバラであっていいであろうと、富士山はひとつなんだから、それぞれ感じ方はみんなあっていいだろう、という考え方、これが今までの、近代、現代ですかね、になってからのアーツとまで言っていいかわかりませんが社会の様々のこと、人それぞれあっていい、これ私全然間違っていないと思うんです。それが駄目だったら全部駄目になってしまいます。ただし、今日やっていただいたようなユニゾンというのは何を歌っても一つに聞こえてくるようなものです。何人歌ってもそれぞれみんな楽しそうね、ということは狙ってないということです。

「そんなことあるの? できたらすごいな」、と思いました。このきっかけというのはいくつかございます。そのことをちょっとお話ししたいと思ってるんですけども、ひとつは、その、声の出し方、言ってみると発声法です。これは歌の発声法なんですけれども、いちばん私がひとつのメロディーを何人歌っても同じ音楽になるんだ、と実感しましたのは、グレゴリアン聖歌ですね、あれを聞いていた時にゾクゾクっとさせられました。六本木の、昔の俳優座の裏の方にフランシスカン・チャペル・センターがありまして、修道院です。そこでカトリックのお坊さん達が歌っている練習に参加したことがあります。私別にクリスチャンではないんですけれども音楽の関係で参加しました。そうしましたらば、やはり、こう環境もいいんですけれどもただみんなが勝手にやっているんではない、何としてもとにかく、たとえば10本のひもがあるとする、それがヒューっと勝手にやってるのではなくて、グーッと集まれて、撚られて、そしてこれがグーッとなっているところに「(聖歌を歌う)」これはちょっと違う音楽ですけれども、そういうまあ言ってみるとお経ですよね、それがある。はあーすごいもんだな、と思いました。何人寄ってもひとつになれるっていう、本当にできたらすごいだろうってそれは私に基本的に音楽に定着するきっかけをつくりました。好きな事を自分で歌って満足する、ことを捨てたんですね。 

(②に続く)