【講演録】磯貝靖洋 講演「声でつかむ命の実感」②

 「Vocal Arts Theater No.3 ―声を磨く、言葉を研く―」(2014年5月5日開催)における、磯貝靖洋による基調講演「声でつかむ命の実感」を全文掲載するシリーズの2回目です。


(①からの続き)

いろいろ私も仕事しましたけれども歌いますし、室内楽でもって、いろいろしました。それで室内楽の場合は楽器の人達がなるべくいい音を出してください、それを私が何となくまとめる、という稚拙なことをやっていた訳です。これはやってて満足しないんですよ。合ってりゃいいんじゃないんだ、そんな程度じゃ音楽はつまらないんだ、ということがムクムクと起って来る。じゃ何なんだろうな、と、これがずーっと問いかけていました。

で、ヴィジュアルの世界、目に見える世界と違って、音の世界、声の世界、これは、すぐ消えます。これが特徴です。これがありがたいことなんです。残っていたら厄介なんです。消えてしまう、ということを頼りに、どんどんどんどん生産するんです。残っていると、それを逆に、アリバイとして、どんどん修正します。そうすると、聞いている方は、修正している結果しか聞けないんです。何か聞いていると、理屈っぽいんですね。もしくは言い訳っぽい。声が出てくる、演奏する、海外で仕事をしていて、日本語と違う、先ほども話にありましたが、日本語と違う音楽をやっていますと、息の使い方、響きの使い方、これを当然違う、あのー言葉が違いますから、当然違います、彼らと仕事をしていて、日本人というのは前に向かっていくというよりもそこに留まっている事を充足することの方が多い、ということを感じました。

ですから、先程の廣木さんの方にも話がありましたけれども、ユニゾンというのはうねらなきゃだめなんです。ただ合ってファーと出てたらダメなんです。あの6人の声が一つに集まって来て、「わ~らべ~はう~たう~(歌)」これじゃあ全く意味がない。グーッとうねっていきますと、エネルギーが一つになりますから、当然そのエネルギーはどこかへ行きたくなります。グーッて、でそれがどんどんどんどん絞られていきます。一つのフレーズが絞り合いをする訳です。その場合、喉で聞いて喉で出すっていうことを言ってます。歌の中には「タ~ラリ~リラ~リラ~リ(歌)」で何でしたっけ、言葉は忘れちゃいましたけど、最後は「ア~、ア~」と喉を開くんです。でも開きっぱなしにしてしまうと「ア~~(歌)」となります。これは出してると結構気持ちがいいんですよね。でも受けている音楽、聞いている方としては別にそんなよろしくないんですよね。音楽としては、発散しちゃった、散漫になっちゃった、ということです。消えてなくなっちゃうんです。

要は何かっていうと、私の考えとしては観念というか実感ですね、音というのはなくなるから次が出てくる、なくなろうとするから次を作らなくてはいけない、というのが、私の音の観念、実感です。ですから、「い~ら~か~のな~み~の~(歌)」があります、「いーらーかーのなーみーのーくーもーのーなーみー(棒読みの歌)」これは次がないんです。ただことばをリズム通り、譜面通りやっているだけ、なんです。じゃあどうするかというと、「ウーウウーウ(歌)」うねる。これは、発声法であると同時に、呼吸法です。そういう言ってみると様々な方法論ですけれども、それを考えました。で皆さんにやっていただいて、やってるほうも結構充実感があると同時にやはり聞いている方が、ほかのとちょっと違うなと、特に日本語の歌の時に違うな、ということを感じていただくことがしばしば起こってきました。

これは音楽、プログラムにもございますけれども、喉を鍛えようとしましたならば、大きな声で怒鳴ることではないです、歌を歌うことです。これはもう、歌が一番です。これは誰に聞いてもそうです。歌そのものの種類をどうするか、それは様々あると思います。それは、ご存知と思いますけれども、笛がここにあって声帯がこうあるんですけれどもね、こんな感じになっている訳です。でこの間に下から空気がプーッときて、吸い寄せられてピラピラピラとなる訳ですよね。2枚の羽根が1枚になって、音を連続してトットットットットッと出すんです。

そうしますと、自分の出している声が、ワーッと広がるような感性ややり方をやっている限り、自分に集中力があるはずはないです。ですから、「嬉しい」ともし感じた時に、「うれしい~」って言うと、それで全部なくなってしまう、「嬉しい」の次が起こらないんです。これはやはり「ちょっと嬉しくないねえ」と、やはり思います。特に私は、仕事で今日このあとご紹介いたしますけれども、パフォーマンスをする人たち、の声を扱うことが多いです。歌もそうですけれども、俳優さん、それから演説をなさる方、様々な方が声を使って、職業として趣味としてなさいます。それが、本人の充実感、というのよりも、聞いている人が、なるほど、引き込まれてしまう、という声の出し方や言葉の出し方、これの方がいいでしょうね、多分ね。じゃあどうするのかと、これはいろいろ考えました。で、こうやって今、私、すいません、ちょっと喉をやってしまいまして、変なガラガラ声になってしまったんですけれども、本当はもう少しいい声ですから、ちょっと我慢してください。またいい音を聞きに来てください。

ことば、歌の時のことば発声、ことばを話す時の発声、というのを何とか近づけたいと思いました。ですから、こんなガラガラになっていても「た~か~くの~ぼ~る~や(歌声)」という声は出るんです。でも、「あのままでしゃべり続ける(歌声)」とちょっと馬鹿らしい、日本語には馴染まない。じゃどうしましょう、これはやはり私たちの職業の人間に対しての宿題です。そういうことで、ことば、声、これはもう密接したものですそして、それを出す私の満足というよりも、それが次へ続く、先に対して提供できて、それを提供できた先がどんどん再生産していく、という声やことばの実感、これができたらいいでしょうねえと、やはり思いました。これは、思うという自分の、何と言いますか、精神的なものよりもむしろ身体的な実感です。ですから、先程のこの人たちの気持ちが入っちゃって「た~か~くの~ぼ~る~や(気持ちの入った歌)」それやったらやれると思うんです。でも、それはやってる本人だけが気持ちがいいんです。あの、言い方が難しいんですけれども、テレビ的表現過多になると、身振り手振りが多くなります。歌だったり声でやったらいいと思うんですけれども、身振り手振りでそれを補足するようになる。それもいいでしょう、楽しいことですから、それでいいと思います。で、もう次のことをやりたいなあ、と思ったんです。

(③に続く)