「Vocal Arts Theater No.3 ―声を磨く、言葉を研く―」(2014年5月5日開催)における、 磯貝靖洋 による基調講演「声でつかむ命の実感」を全文掲載するシリーズの3回目です。
その次のことというのは何だと、考えるきっかけのことをちょっと話しましょう。これは、まったく久しぶりに、ご披露する、世間様に表に出す秘話の一つでございますが、久しぶりにお話しします。ちょっとお待ちください。 (間) およそ、50年ほど前です、私が20歳の夏休み、の出来事だったと思います。もう半世紀になりますから、あまり正確ではないですけれども、記憶をたどってみます。ちょうど、東京オリンピックの準備で、景気も上回っていた頃でした。当時、ボランティアという言葉も習慣もあまりなくて、といったようなことを、宗教団体の方、キリスト教の方や仏教の方たちが奉仕ということでやってらっしゃいました。殊に、キリスト教の奉仕団体の方は、神田のYMCA、まだ残ってますけれども、あそこにございまして、私そこに参加したことがあります。何故かというと英語を勉強したくてそこに行きました。いろんな方と関わっていたんですけれども、ある時にですね、5月の終わり頃でしたか、壁にいろいろの情報が貼り付けてありますね、それをこうなんとなく見ていましたならば、障がい者コロニーで、男子の医学生のアルバイトを募集しますと。というがこれくらいので貼ってありました。なんとなくこう、急いでたんですけれども、何かまた帰って同じものを見ているんですね。「障がい者のコロニーで、学生のアルバイトするんだ」と。
で、衝動的にオファーしました。そうしましたならば、それは、琵琶湖のほとりにございます、障がい者のコロニーでした。国立です。これは、国立の障がい者コロニーの第二番目だか一番目だかの、そういう五本の指に入る初めての試みのことです。でそこにオファーした訳です。で行ってみますと何のことはない雑用ですよね、出来立てのところですから、雑用と、あとは病床見回り、ということを仰せつかりました。で大体30日くらい参りましたかね、休日というのはほとんどないんです。費用はっていいますと、あれは多分大阪からではなかったかと、京都か大阪からか覚えてませんが、そこからの現地までの交通費は支給する、それから、あとはその施設での何ていうんですか、食べるもの、それから病院ですからベッドはたくさんある、寝る場所は提供しようと、あとはない、っていうんですね。
まったくそんなことは気にしないで、お願いしますということで入りました。あと、どんな条件があったかと言いますと、病院ですから様々の障がい者のいろいろの人がいますから、それで、医局というのがあるのをご存知かどうかしりませんが、その医局の会議、というかミーティングですね、そこに、見学していい。これは燃えましたですね、学生がそんなところに行けると、それからあとは、そうですね医局会議と病床のフロアありますね、そして同じような病気の人達がここにいたり、ここにいたりだったんでしょうね、でその人たちが集まって、連絡会というのがあります。「こういう病気の場合は、こういうことがあるみたい」というのも、こうやってたちあいといいますか、見学していい。これも燃えました。何かって言いますと、現場ですみなさん。現実に障がいの人を扱っている人、その人たちがどんな顔してどんな声して何しゃべってるんだろう、ていうのはものすごくエキサイティングでした。
ただ、大体1日14~15時間働くわけですからだから、まあヘトヘトですね、でも若いですから、全然気にならないんですよね。それで、そういうことでやっていたんですけれども、終戦後の国の肝いりで作った、関西圏の人たちの患者さんたちが入っておられました。いろいろの障害のある人たちが来てらっしゃいました。まあ全部重度の方達ですね。30名か50名か、これはあまり詳しく覚えていません、昔全部そういうメモを取ったのがあったんですけれども、今流行りの小保方さんでしたか、のように昔の資料はなくなりました。ありましたね、実験のデータがなくなっちゃったと、あれみたいなもんで、たしかにどっか行っちゃったんです私のも。今度お話しするんで色々見つけてみたんですけれどもないんですので、少し違っているデータになるかもしれないんですけれども、あまり正確ではないけれども、30~50名くらいまでが入っていただろうと。
病棟の見回りをしていた時に、看護婦さんが、これ新しくて、セメントの壁が裸で出ているような、すごく斬新だったんですよね、当時は、木ですから、そのバーッと剥き出しのセメントのところに要はあるんです、そこで看護婦さんが、ある薄暗い小さなベッドでしたか、ベッドの脇で、患者さんを一生懸命拭いておられました。私もお掃除をしていて、見ましたら、よく見ていた筈なんですけれども初めてその時に、「あ、この人はこういう人なんだ」ということを気が付きました。これも、思い出しです。正確なことは言えませんけれども、「この人はねえ、もう25年もこうやって生きているんですよ。僅かの体の動きと目の動きと唇の動きで話してくれるんです。私も随分分かるようになったけれども、まだまだね。」という意味のことを看護婦さんが私に話してくれました。私は夢中になって「全然しゃべらないんですか、声出ないんですか」と聞きました。そしたら「見てごらんなさい、ここに喉頭がありますね、喉頭はあるけれどもヒューヒューとしか言わないんだ」と仰るんです。よく聞いてますと、専門的に言いますと喘鳴(ぜんめい)と言うんですけれども「ハァーハァー」というのは確かに聞こえるんです。でも声ではない。年に何回しか声を出さない、というお話も伺いました。
私は専門がそういうところではなかったものですから、あまり障がい者の生理の事は勉強しませんでしたから、詳しいことはお伝えできません。でも、何しろ、もうお亡くなりになりましたから、ここで話しても悪くないだろうと。悪いかもしれないけれども、許されるのではないかと思います。
実際にその方は、座ったとします、ベッドの上に座ったとします、上半身と頭の大きさがちょうど1対1くらいなんです、そして足と手が、まるでこんなパイプみたいのが、こう折り曲がっている、ビアフラの子たちが写真に写っているのもありましたけれども、生きたままでそういう状態でした。たくさんの重度の方がいらっしゃいますから、特別に私は感じないでたんですけれども、たまたま、その方と看護婦さんが人間的関わりをしているものですからいやに気になって見てしまいました。「これで、生きていられるんですね」って言いました。看護婦さんが大変に軽蔑した目を私に向けまして、「あんたそれで医学勉強してんの」と言われました。
ドキッとしました。普通の、自分と同じような格好をしていないで、不思議な格好で生きているっていう人は、人間じゃあないと思っていたわけではないんですけれども、どこかにあったんでしょうね、ですから「いや、そうことじゃなくて」って夢中で打ち消すんですけれども自分の中でもう取り返しのつかないところにいっちゃったなと、実感しました。その方は、実はお名前がタカハシヨシロウさんという方、いまだに覚えています。これは、ちょっと因縁じみているのは、私の兄、二つ上の兄なんですが、これも、ヨシロウという名前でした。彼は5歳の時、私が産まれるより前に死んでます。名前を聞かされて、見たらネームがあるんですけれどただ見てただけなんですね、そして、その方の実体を人間的に捉えて、そして聞いてみて、生きている、という実感を感じて、その時に、タカハシヨシロウという名前を見たと同時に何だか分んないんだけどウォーっとおかしくなっちゃった。「私の兄と同じ名前なんだ」というのが少し経ってから実感してきました。
その、生きている、ということ、これが、必ずしも元気でいい声出してやっているわけではない、何て言いますかね、ほんとその方が、ようやく生きていると、ようやく生きているというよりもそういう生き方でしょうね、それを拝見していて、やはり夏です、終わりの頃は8月の後半ですから、とても蒸し暑くて大変な時だったんですが、夕立ちで、猛烈にピカピカゴロゴロドッシャーンていう向こうは多いですから、始まりました。そしたら、ちょうどそこを通りかかったので、見ましたらば、タカハシさんの所が、ヨシロウさんのところが、猛烈な光を発してるんです。「なんだーこれは」と思いました。すぐに、わかってたら何てことないんですけれどもオーラを発してるんですね、で「このことか」って思いました。近寄って、どうしたのかな、と思って窺っていると、低ーい声で「アー、アー」と途切れながら声を出しているんです。これまたやっぱりやられちゃいました。「なんだー」ってことになりました。年に何度かしか声を出さない方が、今私の目の前で声を出していると、これは、生きているというよりも「声なんだあーー」と感じました。その先に、命があるんだなあ、と感じました。命があるから、体が動くから、「アー」と声を出すんではないんだろうと、否応なしに衝撃を受けちゃったんですね、頭の回路が逆になっちゃったんです。
「1+2=3だったならば、3=1+2である」というような回路が逆になっちゃったそうしますと、それからというものは、声やことばに関してということの観念が変わってしまいました。私が努力して一生懸命出したらば、出る、というものではなさそうだ、そういうものもあるけれども、その、ヨシロウさんというのは自分が努力して出しているのではなくて多分、私いま勝手(に思うん)ですよ、あのときも、こう雷だか、ああいうエネルギーが彼をワァーって引き摺ったんではないかなと、こんな話をするととっても難しいんです、うっかりこれ新聞なんかに載せられると一つは「それはやっぱりこうなんだよ」ってオカルト好きな人が大喜びしたり、それから「それは何ら根拠がないではないか」ということで悪し目に遭ったりする、厄介な社会になってますから、それで僕はこの話をするのをやめちゃいました。「分かんない人は分かんないんだからいいや」と思ったんです。
でもそれはちょっとひどいだろう、と自分の中では感じてたんですよ、これを何とか伝えなきゃな、と思って、自分の意志、心ですね。自分の意志が声を出す、という部分も勿論ある、でも、そんなもの関係なく乗り越えちゃっただかもっと根底に何かなかったならば声なんて出てないんだよ。その声で「イエアオウ」とか「おはようございます」だとかいうのは簡単です、でもそれがなんぼのもんなんだと、これはいつでも毎日自分で問いかけてます。