【講演録】 磯貝靖洋 講演 「声でつかむ命の実感」④(完結)

 「Vocal Arts Theater No.3 ―声を磨く、言葉を研く―」(2014年5月5日開催)における、 磯貝靖洋 による基調講演「声でつかむ命の実感」を全文掲載するシリーズの4回目、最終回です。


(③からの続き)

声っていうのは、ないと困ります。勿論あった方が便利です。ない方もいらっしゃる。その声が言葉を作っている。声以外のことばも勿論あります。手話だとか文字のことばもあります。やはり、あのとき以来、私は、人間の持っている言語っていうのは声から始まったと、それは魂に直結しているのではないかとだから日本では言の葉なんて言うんだろうと、思いました。ですから、声そのものが私の道具ではない、どちらかっていうと私が声の道具なのではないかと、と思うようになりました。そうしましたら、妙に楽になりました。

それから、そうか、声のことっていうのは、もっと技術的にも科学的にも色々のことが勉強できそうだな、ということを感じるようになりました。それから、先程言いました、こういうことがあるな、こういうことがあるな、これもっとこうしなきゃな、ということの方に、少し邁進することが出来るようになりました。それで今ここで皆さんの前に声や言葉のプロフェッショナルとしてお話しできるようになりました。

これから、いろいろ面白いことをご紹介します。明日は特にパフォーマンスで、いわゆる「見せる」、ヴィジュアルに見せる、というよりも声を見せる、言葉を見せる、ということをやってみようと思います。たとえば、そうですね、宮澤賢治、詩、これも、声で見せます。書いてあることを身振り手振りでするのではありません。そういうのには飽きましたから、そうではないものをしたい。ではどういうものか、必死になって模索している最中です。若い人達がたくさん後からついてきて、どんどん次から次へと新しいものを出して行ける、面白いなあ、と思っています。声が、やはり心を突き抜けていることであると、そうしないと言葉というのは途轍もなく、私有化されて勝手な使い方しかされない。今の新聞見ていたらひどい話しですね、「そんなことあるか」っていうことを平気でやるようになりました。たまたまそのああいう社会的に困ったですねえ、というような事業、仕事をなさっている人達がそのことを説明している時の音声、これは汚いです。よく聞いてみて下さい。さきほどやったように、およそ喉からなんか出していません。口先言語ばかりです。薄っぺらです。だって我欲の満々ですから、そりゃあそうでしょう。そんな声はやっぱり聞きたくないし、その仕事になるとどうしてもその声になるのかもしれません、それは分かりません。

言葉そのものはいろいろの意味を持っています。情報です。それを伝えようとします。でも、それは情報や伝えるってことが仕事なんじゃない、それは仕事かもしれないが大切なのは、それよりももっと元にある、それは声で作れるんだ、声で掴めるんだ。まだまだ私もしばらく生き長らえてこの仕事をさせていただきたいと思っています。ありがたいことに若い方たちが興味を持ちはじめました。好きなことを好きなようにしゃべる、というのは、あまり面白くなくなってきたんでしょうね。自分の、何ていうんですか、時々言葉でいうんですが、「自分の芯に問い掛けるような声がある、わからずに『ワァー』っと発散するのは、5分してたら嫌になる、それが嫌にならなかったとしたならば、君は心は壊れている」ということを平気で言うようになりました。難しいですね、これも言いようによって聞きようによると磯貝は宗教者かと思われますから。はい、そうではないんですね、あくまでも声である。

このあと、いろいろのことをご覧いただきたいと思います。明日はパフォーマンスをご覧いただきます。

最後までごゆっくりおつきあいくださいますよう、お願いいたします。

ありがとうございました。

(講演ここまで)