【コラム】舌を征することは言葉を征する

声を出し、言葉を話す人間にとって舌は無くてはならない。
又、物を食べエネルギーを摂取するに当り、 舌がないと食べる事が出来ない。
話すことで精神や心を持ち、育て、 食べることで命を育み、保っている。

この人間を成立させる2つの根元を1つの“舌”という器官でまかなっている。
言いかえると私達“人”は心と命を“舌”にまかせきり、たよりきって生きている。
しかも相当に無意識、無神経に。

当然生活上は、話すも食べるも舌の事を考えたり、意識を集中したりしていない。
何とも自我の奴隷のごとき関係にある。

と云う事は舌は随意筋で括約筋であることが分かる。
今話している言葉も出している声も随意的に舌をコントロールして出している。
ただ、あまりにも長い期間習熟したためほとんど無意識に…。

声や言葉は変わらない、と考え決めつけている人は多い。
この人達は舌使いも変らないと勘違いしている人が多い。
良く喋る人、早口で話す人が必ずしも良い音声とは限らない。

声と言葉を職業とする人にとっては、舌とどの様に付き合うかは大変重要な事である。

言葉の精度、質を上げるのは正に“舌”によると言えそうだ。


2010年7月
磯貝靖洋

 


【コラム】現代若者のオノマトペ型情動表現、それは音楽!

「ヤベー」 「超ヤベエ」

否定心理でも肯定文でも、全てをこの語をなげかける事で、 了解し合っている。
一種の小グループの隠語的ハヤリ、方言である。
言葉で論じ合う手間をはぶき、感覚的な共感性だけで過ごすための言葉だ。
外部との交流性は弱く、閉鎖的で、むしろ独善的に孤立する事を好む効力を持った言葉だ。

考えてみるに“YABEE”という音を基本に「超」「めっちゃ」「極」と いった副詞的装飾語をつけ、多少のニュアンスの幅、 使いまわしをしている。
具合が悪いとか良くない、まずい等の意味の「ヤバイ」が 北関東弁の語尾「ベー」に転化したものと思われる。
ここまでは多くの人達も感じとっていて何等物新しい事でもない。

実は、私にはこの「ヤベー」という語はオノマトペーとして聞こえて来る。

やはり、今ある種の人達の中で流行っている 「ザックリ」「サクサク」等と同じに聞こえる。
何となく分かるが、あまりはっきりとした焦点のない語と 受け取れる。
だが、使っている人にとってはとてもしっくりと 納得のいっている語の様だ。
これ等の語が今後50年くらい生きのびると、情動的オノマトペーとして公認されるのであろうが、現在ではハヤリ言葉として消えていく一つの現象となりそうだ。

これだけでも“アーそうですか”と何等面白味がない。

ハヤリ言葉とオノマトペー、実はこれは独特な音楽なのだ。

私達は今、この様な精神的、身体的状態を適格に表現する言葉を持っていない。
ヤベーから始まり、サクサクまでの言葉は妙に身体感が強く しかも何か訴えたい力をもっている。
それを表現するには音楽が一番だ。

次にはダンスだ。
オノマトペー流行り言葉は音楽でダンスだ!

”そりゃ君、話がとびすぎるよ”と言われるかも知れない。
意味で固めた重たい日本語を、声の力で生き生きとする事なのだ。

音楽感覚なら乗り易いし近づき易い。
独特の音とリズムがキーだ。

音楽なら沢山の新しい才能が参加して洗練出来る。
そうしたら50年生きのびられる。


2010年6月
磯貝靖洋

 


【コラム】「オーソドックスな母音音を教わらないで育った日本人」

アマガサ、モノドモ。

この語は各々アとオの母音で出来ている。
同一母音に色々な子音が付着しているとも言える。

私達の日本語は5つの母音を持っている。

また全ての音節(拍)に必ず母音が登場する。
先程の雨傘はAmAgAsAといった具合である。
(正確に云うと「ん」と促音「ッ」については母音はない)
なにしろ母音がないと成立しない言語である。


さてそれほど重要な母音について、多くの日本人は正確に生成の方法と成果物である母音音を教えられて来ていない。ほとんどの場合が口形図にならい発音する事で終わっている。
そしてサンプル音(多分先生や親)に合わせた“つもりの近似音”で卒業だったと思う。
その後はまわりが全部日本語なので大きな違いはなく育っては来た。

一方私達が外国語を習う時、少し本格的な所では必ず、その文字の音はこの音、と先生がうるさく指導する。
当然口唇の形、舌の使い方(活舌=タンギング)をしつこく直される。

その語の音はこの音。それはこうやって構音する。その音がちがうと意味が通じなくなる。

という分けで先生の口や舌を真似、その音を良く聞き、くり返しくり返しして身に付けて来た。
特に独語の¨(ウムラウト)には手をやいた、いや口をやいた人も多いと思う。

そこで身に付けたのは“言語にはその音がある”ということだ。

声は各々の固有なものであっても、その素材をつかって必死になって“その音”にしようと構音機能をフル回転して真似て真似て、その音に近づけようとする。その音と機能を覚えてはじめてその音や語を発音する事が出来る。

いま私達が、この語やこのフレーズはこういう音という事を明確にし、この音が“オーソドックス”としようとしても、一概には決められない。色々あって豊かになるetc…と音以外の次元に話がとんでしまう。

何百年もほったらかしにしておいた日本語の音の事だ。
当然何百年もかけて、しっかりしたものに再構築して行くことだ。

これは全く新しい日本語の次元を発達させ、新しい次元の知性を発明発見することになるであろう。


2010年6月
磯貝靖洋

 


【コラム】「人の言葉はまず母音」

 日本語は、あ・い・う・え・おと五つの母音で成り立っている事は皆良く知っています。
この五つはそれぞれ違った音を持っています。何が違うかというと、響きが違います。幼児(人)が言葉を覚え始める時、ほとんどの人は母親からじかに教わり、身に付けて行きます。むしろ教わったと言うより、授かったと言う方が正しいでしょう。

 まず母親の胎内に住んで(!)いた時、母親の言葉を聞き、その振動を受けて育ちます。
長らく母親の話す音(振動)と同調して育って行きます。元々遺伝子の中にセットされている言語能が発現してくるのです。それに刺激を与え続けるのが母親の母音振動です。

 生れると今度は母親の声(空気振動)を直接受け、独立した生物体として育って行きます。
母胎の内の直接振動が間接振動として耳から入ってくるのです。「あっ、お胎の中で受けていたあの振動は、音になるとこういうものなのか。」と感じ(音感)、育って行きます。(人間にとっての音感とは、いろいろな音を受け、なるべく正確に識別して行く能力の事をいいます)

 そもそも音とは空気の細かい振動です。それは沢山の種類を持っています。
私達はこの振動は“鳴り”と「響き」としてとらえます。鳴りは瞬間のショック的運動のため、その後の響きをつかまえて“ウン、音だ”と知覚します。言葉の音もこの響きをつかまえて “ア” とか “ウ” など聴き分けます。ということは、ア・イ・ウ・エ・オの違いは響きの違いだ、と言えます。


2010年5月5日
磯貝靖洋

 


【コラム】「祈るということ」

祈りとは、全てを開き一点と向き合い、向こうからやってくる事を、いつまでも待つことである。

黒人霊歌は祈りの歌である。“どうにもならない”人たちの魂の歌である。
いまは、物質に恵まれ、“どうにでもなる”中で生きている。
米国人も日本人も、私もあなたも。
黒人の彼等は祈って歌った。神に魂の救いを願い祈って歌った。
それしか救われる方法がなかったから。

だから黒人霊歌はすごかった。
‘By and By’も‘Peter,Go Ring-a Dem Bells’も‘Swing Low,Sweet Chariot’も、
その他、沢山の彼等の歌達…。

1800年頃から比べると今は表向きは自由で豊かだ。
現在(いま)の黒人霊歌には祈りが少ない。
もしあったとしても、その祈りは心の祈りであって、魂の祈りではない。

人は豊かになると、魂を生きることは出来難くなるのだろうか。
それにしても私達は日常的に祈る事をしなくなったと思う。


磯貝 靖洋